長い坂を上る。 この坂の向こうには高校がある。 ここらじゃ有名な進学校で、俺みたいな喧嘩しか能のねえ馬鹿には何の縁もない場所だ。 だが。 だが、この向こうにはあいつがいる。 俺らはあいつのことをゆきねえと呼んでいた。 ちょっとボケた感じの、いつも明るい奴だった。 あいつに会うためなら、こんなクソ長え坂も平気だ。 だが、今日は違った。 今日の目的は、ゆきねえに会うことじゃねえ。 「よお……」 俺は目の前を通りかかる優男に声をかける。 「ん？ あんたは……」 そいつはこの学校の制服を着崩していた。 「確か、岡崎だったか」 「あんたは確か、宮沢のところにいた、みのり……ふ？」 「そんな名前の奴がいるわけねえだろ。実夫（みつお）だ」 変な名前に間違えられた俺は少し不愉快に言う。 「別にいいじゃないか。みのりふで」 「ざけんな！」 バシィ……！ 俺の拳は正確に奴の面の真ん中を狙った。 だが、あたったのは頬だった。 「……おいおい、シャレになんねえだろう。たかが名前くらいで」 奴は冷静を装っていたが、その目は確実に殺気立っていた。 「違えよ。名前なんてどうでもいい」 間合いを取る。 「俺はてめえが気にいらねえだけだ」 奴の反撃に備える。 「そうかよ。そりゃ奇遇だな！」 言い終わる前に奴は俺めがけて殴りかかる。 その辺のゴロツキよりは速えが、俺からすれば、遅え。 その上、予備動作が大きすぎる。 俺はそれをかわしつつ、奴の腹に一発入れる。 「ぐっ……！」 奴が腰を折る。 ボスッ 更にがら空きの頭を襲う。 「…………！」 奴は地べたに崩れ落ちる。 起き上がろうともがくが、ふらついては再び崩れる。 「……んなことで守れんのかよ」 何とか頭を振りながら起き上がる奴の胸倉をつかむ。 「弱え癖に！ そんなんでゆきねえを守れんのかよ！」 「…………！」 奴が顔を上げる。 「俺ぁよ、ゆきねえが弱っちいのと付き合っても別にかまわねえと思っている」 荒い息をしながら俺を見る奴。 「あいつはお嬢さんだし、相手もそこらの秀才のお坊ちゃんが似合ってるし、その方が幸せだろう」 俺も、奴を見返している。 「──だが、お前は駄目だ」 坂の途中。 この学校から出てくる奴らが俺らの脇をそそくさと抜けていく。 「俺らが誰もゆきねえに付き合うとか言わなかったのは、俺らみてえなろくでもねえムシケラと付き合っても不幸になると思ったからだ」 奴の息が少しずつ回復する。 「ムシケラにはムシケラのルールがある。俺らと付き合ってる女はいつ危険な目にあってもおかしくねえ。だから誰も手を出さなかったんだ」 この場に似つかわしくない桜の葉が風に揺れる。 「お前は俺らと同じだろう。社会のクズだ、ムシケラだ！」 「分かっ……てるさ……」 奴は腫れた瞼で俺をにらむ。 「だったら何故手を出した！」 俺は奴に怒鳴る。 奴は怯みもせずに、口を開く。 「たとえ俺がクズでも、俺は宮沢を幸せに出来る。必ずな」 奴の顔は真っ直ぐだった。 こいつは、必ず出来ると思っている。 何の迷いもなく、思っている。 何の根拠もないくせに、そう思っている。 俺は怯んだ。 こいつは馬鹿野郎だ。 俺が思っていたよりも、ずっと馬鹿野郎だ。 「だ、だが、お前はゆきねえを守れねえだろ」 奴の息は大分おさまってきている。 目のヤベえギラつきもなくなり、いつものあの目になった。 ゆきねえといるときの、あの目だ。 「お前に、命をかけてゆきねえを守るだけの覚悟はあるのか」 俺は、こいつに対する妬みや苛立ちが消えていくのが分かる。 「………………」 これで、こいつがうんと言えば、許してやろう。 そんな気でいた。 「……なわけねえだろ」 だが、奴は、言わなかった。 これで俺はこいつを殴らなければならない。 「死んじまったら──」 殴らなければならない。 「宮沢を幸せに出来ないだろうが」 殴らな……けれ……ば……。 ………………。 すとん 俺は奴を下ろす。 奴は、俺を見たまま、切れた唇を拭き、制服の乱れを整える。 ざわざわと、風の音がやけにうるせえ。 「なあ、みの……り……ふ、だったっけ」 「……ミツオだ」 俺は不機嫌に訂正する。 「お前が宮沢が好きで、でも好きだからこそ手を出さなかったのは分かった」 奴が、大馬鹿野郎が、落とした荷物を手に取る。 「俺も、お前も、宮沢に幸せになって欲しいってことは同じだ」 「……ああ」 「俺はあいつを幸せにする」 奴の目は、あくまで真っ直ぐだった。 「先のことなんて分からないし、絶対って言葉は、未来にはありえないが」 なんでだろう。 「俺は絶対あいつを幸せにする」 奴の言葉が、馬鹿馬鹿しい言葉が、妙に心に来る。 こいつなら。 こいつなら、出来る。 そう思った時点で俺の負けだ。 「……ああ」 俺はそう答えると、奴に背を向けた。 坂を下りる。 もう二度と、ここに来ることはないだろう。 悔しいが、俺は人の女にすがるようなハンパはしねえ。 夕陽が、やけに眩しい。 辺りの紅も、見えないくらいに。 「──なあ、みのりふ」 奴が背後から叫ぶ。 「また、資料室に来いよ」 振り返る俺に、奴の紅く染まった姿。 こいつは……。 大馬鹿野郎、だった。 「ああ。お前が本当にゆきねえを幸せに出来るかどうか、監視してやる」 俺が言うと、奴は笑いながら手を振る。 空は、果てしなく紅かった。 |